日本のジュエリーの歴史

アジアは世界でおそらく最も豊かな文化を持つ地域です。西洋では、アジアの文化というと迷信や神秘主義を連想する人が多いようですが、それが必ずしも間違いというわけではありません。ただし、良い意味での話です。アジアには文化だけでなく、宗教も数多くあります。これらが重なり合って、豊かな歴史を築き上げているのです。日本の歴史もその例外ではありません。

そこで今回は、日本のジュエリー作りの実践と、その文化的伝統の内側を覗いてみることにしましょう。

日本のジュエリー作りの黎明期

紀元前1000年から6世紀に至るまで、日本の宝飾品は、長さが1インチ(約3cm)ほどで英語のコンマのような形をした石が主流でした。元々は緑色のヒスイを使ったものが多く、後にはガラスも使われるようになるのですが、それらは勾玉(まがたま)と呼ばれ、ほとんどがペンダントやビーズとしてネックレスに付けられるようになっていました。
勾玉が何を意味するものだったかははっきりと分かっていませんが、お墓に入れられていたようです。韓国でも似たようなものが見つかっており、3世紀から6世紀にかけてのものと見られています。

日本の伝統的な衣装では、男性も女性も石や貴金属、装飾品を使うことは許されていませんでした。一方、飾り部分に凝った装飾が施された簪(かんざし)は、徳川時代(1603~1868年)に芸者や遊女が好んで使っていました。ただ当時は、それ以外の階級の女性がかんざしを使うことはありませんでした。同じ頃、男性が身につけることを許されていたのは、印籠(いんろう)でした。これは、お菓子や薬、タバコなどを詰めた小さな箱で、紐で結んで腰からぶら下げるようになっています。
印籠は、真珠や貴金属を使って美しい絵付けを施した漆器であり、自然主義的なデザインを特徴としています。

日本文化が形を成すようになったのは、大和時代のことです。日本人の多くは神道という自然界に内在する霊を祀る多神教を信じていました。一方、仏教が急速に普及し始めると、日本の美術品や宝飾品にも仏教のモチーフが取り入れられました。また、ペルシャとの国交も、日本の文化や芸術に影響を与えました。

日本の文化がヴィクトリア朝時代のデザインやジュエリー美学に大きな影響を受けていたことも、伝えておく必要があるかと思います。穏やかで手つかずの自然の存在が、芸術家たちの心を捉えました。当時の芸術家たちは、急速な工業化によりイギリスの風景が徐々に破壊されていったことへの反動として、サギや湖、竹や葦といった牧歌的な風景を作品にしていました。

日本では髪に付ける飾り物が絶大な人気を誇っており、その中でも、かんざしという花柄の飾り物は、特に人気がありました。元々は縄文時代にデザインされたもので、当時、かんざしには悪霊から身を守る神秘的な力があると信じられていました。

江戸時代になると髪型もより精巧で複雑になり、これに合わせてかんざしも発達していきました。かんざし職人の手によってより緻密で精巧な工芸品となったかんざしですが、なかには護身用に使われるものもありました。つまり、武器としてのかんざしも存在したのです。